平成社会の探索


ー第69回知恵の会資料ー平成19年4月15日ー

<「知恵の会」への「知恵袋」>


(その14)課題「袋」ー「おふくろさん」の歌謡
ー母を讃える歌あれこれー

<母の歌>

(1)和歌のあれこれ

 母を詠んだ歌で思い出すのは、行基菩薩の詠とされる
 
 「山鳥のほろほろと鳴く声きけばちちかとぞおもふははかとぞおもふ」
                       (玉葉和歌集 巻十九 釈教歌 2627)
 (注)此の歌は、「ほろほろと鳴く山鳥の声聞けば」と詠んだ方が印象的であり、
    また下句も「ははかとぞおもふちちかとぞおもふ」の方が直感的だとおもうのですが。

とあります。行基菩薩は、父親と母親を対等に歌い込みました。

 万葉集にも父親より母親を思う歌が多く残されているようです。歌の数から比較しますと、
 「はは」と詠まれている歌は各巻毎に次のように集計されています。
   
  巻数  3 5 7 9 11 12 13 16 18 19 20 合計
   母  2 4 2 5 11  3  8  3  1  2  2 43
   父  1 4 0 4  0  0  8  1  1  2  3 24
  母父  1 4 0 3  0  0  4  1  1  1  2 17

 母の歌は、父の歌のざっと二倍近くあることになります。なお、もうすこし分析内容を変え、
母と父を一緒に使っている歌数をみますと、「父」を用いるときは、殆どが「母」とともに
用いられています。母のみを詠んだ歌は、大凡25首、父のみ詠んだ歌は6首ほどあります。
したがって、母の歌の内、約6割は「母」のみの歌と言うことになります。

 母のみを詠んだ歌として代表的なものを、巻11及び巻12中の歌から引用しておきます。

 「玉垂(たまだれ)の小簾(をす)の隙(すけき)に入り通ひ来ね
                 たらちねの母が問はさば風と申さむ」(巻11−2364)
 「たらちねの母に障(さは)らば いたづらに汝(いまし)もわれも
                       事のなるべき」(巻11−2517)
 「たらちねの母に知らえず わが持てる心はよしゑ 君がまにまに」(巻11−2537)
 「たらちねの母に申さば 君も吾も会ふとはなしに 年ぞ経ぬべき」(巻11−2557)
 「あしひきの山沢ゑぐを摘みにゆかむ日だにも会わせ 母は責むとも」(巻11ー2760)

 これらの巻の中の「母」のイメージは、「家庭の中心にあって一家を護る戸主的存在」として
詠まれています。子供の側からの「はは」の詠みは、「尊敬する」「やさしい」「おもいやりがある」
あるいは「甘えたくなる存在」などとは反対の、「きびしい」「威厳のある」また「一家を取り
仕切る」いわゆる「こわい存在」であるのです。現代で言うところの「頑固親父」あるいは
ある意味では「雷親父」的な存在と見なされます。
 例えば巻11の13首の歌を見ますと、夜ばいしてくる「好きな相手」が、何とか「はは」に
睨まれないで、逢う瀬の思いを成就したいという手合いの詠みが目立ちます。
 古代の母親は「こわい存在」あるいは「強い存在」であったことが、現在となっては懐かしい
感じがします。千二百年の時が、家族形態を変えてきたのです。


(2)近代の歌曲や歌謡より
  西欧音楽が導入された明治時代以降の「おふくろさん」ー「母の歌」を拾ってみますと
 次のようなものを拾い集めることが出来ます。

 <1>「母君にまさる」ー明治後期ー 賛美歌
    一番 母ぎみにまさる ともや世にある 生命の春も 老いの秋にも やさしくいたわり
       いとしみたもう 母ぎみにまさる ともや世にある
    二番 母ぎみにまさる ともや世にある えまいも涙も ともにわかちて 夕べの祈りに
       こころをあわす 母ぎみにまさる ともや世にある
    (引用資料:「日本の詩歌」別巻日本歌唱集(中公文庫)中央公論社(1991年6月))

 <2>「母をよぶうた」ー昭和8年10月ー 作詞:吉村比呂詩 作曲:松本民之助
    一番 空に向いて 母をよべば なつかしい笑顔は 雲にうつるよ 
       白い白い光の翼に やさしいかげが静かにうつるよ
    二番 山に向ひて 母をよべば なつかしい言葉は こだまにかえるよ 
       青い青い谷間の茂みに 花びらゆれて想い出匂うよ
    三番 月に向いて 母をよべば なつかしい瞳は こだまにかえるよ
       遠い遠い銀河の流れに 美しい夢がきらめき動くよ
    (引用資料:「日本名歌110曲集」全音楽譜出版社出版部編 
          (株)全音楽譜出版社 (1958))

 <3>「母の歌」ー昭和12年9月ー 作詞:板谷節子 作曲:橋本国彦
    一番 ごらんよ坊や あの海を 沖は朝凪 お陽さまよ 坊や海の子 すくすくと
       汐の息吹で 育つわね
    二番 ごらんよ 坊や あの山を 峯は白雪 あおぞらよ 坊や山の子 手を振って
       今にあの峰 登るわね
    (引用資料:「日本名歌110曲集」全音楽譜出版社出版部編 
          (株)全音楽譜出版社 (1958))

 <4>「やさしいお母さま」ー昭和15年2月ー 作詩:稲穂雅己 作曲:海沼実
    一番 わたしが おねむに なったとき やさしく ねんねん こもりうた
       うたって ねかせて くださった ほんとに やさしい おかあさま
    二番 なつは  ねびえを せぬように ふゆは  おかぜを ひかぬよう
       おふとん なおして くださった ほんとに やさしい おかあさま
    三番 わたしが おおきく なったなら ご恩を  お返し  いたします
       それまで たっしゃで まっててね ほんとに やさしい おかあさま
    (引用資料:海沼実「童謡ー心に残る歌とその時代」NHK出版(2003年3月))
    
 <5>「母の歌」ー昭和18年2月ー 作詩:野上弥生子 作曲:下総皖一
    一番 母こそは 命のいずみ いとし子を胸にいだきて ほほ笑めり 若やかに
       うるわしきかな 母の姿
    二番 母こそは 御国の力  おの子らをいくさの庭に 遠くやり 涙隠す
       おおしきかな 母の姿
    三番 母こそは 千歳の光  人の世のあらんかぎり 地にはゆる 天つ日なり 
       大いなるかな 母の姿
    (引用資料:堀内敬三・井上武士編「日本唱歌集」岩波文庫6084−6086
          岩波書店 (昭和40年12月))

 <6>「かあさんの歌」ー昭和31年2月ー 作詩:窪田聡 作曲:窪田聡
    一番 かあさんが夜なべして 手袋あんでくれた ”木枯らし吹いちゃ冷たかろうて
       せっせと編んだだよ” ふるさとの便りは届く いろりの匂いがした
    二番 かあさんが麻糸つむぐ 一日つむぐ ”おとうは土間で藁打ち仕事
       お前もがんばれよ” ふるさとの冬はさみしい せめてラジオ聞かせたい
    三番 かあさんのあかぎれ痛い 生みそをすりこむ ”根雪も解けりゃもうすぐ春だで
       畑が待ってるよ” 小川のせせらぎが聞こえる なつかしさがしみとおる
    (引用資料:読売新聞社文化部「唱歌・童謡ものがたり」岩波書店(1999年8月))

 <7>「おかあさん」ー昭和24年開始・NHK「歌のおばさん」番組よりー
                      作詩:田中ナナ 作曲:中田喜直
    一番 おかあさん なあに おかあさんて いいにおい せんたくしていた においでしょ
       しゃぼんのあわの においでしょ
    二番 おかあさん なあに おかあさんて いいにおい おりょうりしていた においでしょ
       たまごやきの においでしょ
    (引用資料:中田喜直・小林純一編「現代こどものうた名曲全集」音楽之友社(1969年2月))

 <8>「夕方のおかあさん」ー昭和24年開始・NHKラジオ「歌のおばさん」番組よりー
                      作詩:サトウハチロー 作曲:中田喜直
    一番 カナカナぜみが とーくでないた ひよこのかあさん うらきどあけて
       ひよこをよんでる ごはんだよォ ごはんだよォ 
       やっぱりおなじだ おなじだな
    二番 チラチラなみに ゆーやけゆれた めだかのかあさん こいしのかげで
       はよはよおかえり ごはんだよォ ごはんだよォ
       やっぱりおなじだ おなじだな
    三番 サヤサヤかぜが 篠の葉なでた こねこのかあさん あちこちむいて
       おいしいおととで ごはんだよォ ごはんだよォ
       やっぱりおなじだ おなじだな
    (引用資料:中田喜直・小林純一編「現代こどものうた名曲全集」音楽之友社(1969年2月))

 <9>「ママがあかちゃん」ー昭和36年開始・NHKテレビ「うたのえほん」番組よりー
                      作詩:田中ナナ(まどみちお補作) 作曲:林光
    一番 ママがあかちゃん だったって ちいさなあかちゃん だったって
       ママほんと ほんとママ きょうはママの たんじょうび
    二番 ママをだっこ できたって ぼくにもだっこ できたって
       ママほんと ほんとママ きょうはママの たんじょうび
    三番 ママおっぱい のんだって たくさん たくさん のんだって
       ママほんと ほんとママ きょうはママの たんじょうび
    (引用資料:中田喜直・小林純一編「現代こどものうた名曲全集」音楽之友社(1969年2月))

 これらの「おふくろさん」は、いろいろな立場で、いろいろな観点から見た「母親の姿」として
歌われています。時代を反映して、それぞれの歌のなかでの「おふくろさん」のイメージが種々に
変わっているところが時代の流れなのでしょう。
 しかしこれだけ変動した時代の流れの中にあっても、歌い継がれている「おふくろさん」は、よほど
私たち人間にとって忘れることの出来ない存在であるわけです。だからこそ、このようにいろいろに
歌い継がれてきたわけです。
 そしてその歌い上げられる理由は、いつに人間存在の根源に関わる「自らの出生が忘れられない、
そのみなもとを辿りたい、確認したい」という一点に絞れるのではないでしょうか。

 人間が死に直面したとき、頭の中に行き交うイメージは、多分に「おふくろさん」に何等かの
関わりのあるものが含まれているのではないでしょうか。
 太平洋戦争末期、多くの若者が特別攻撃隊として戦地に散っていきましたが、その残した遺言と
いうべき「きけわだつみのこえ」などには、書面としては「父上、母上」の文言が並んでいるものの
脳裏をかすめた本能的な映像は「おふくろさん」ではなかったでしょうか。

 生まれてから、自分が認識できるまでに関わる生育環境は明らかに「おふくろさん」の世界である
のです。外界から与えられる音の環境、あるいは歌を覚える教育環境は、即ち「おふくろさん」の
音楽環境にあります。音楽環境に大きな影響を持っていたNHKのラジオやテレビに於ける歌の世界は
すなわち「おふくろさん」の耳や目を通して体感するものであったのです。ラジオの「うたのおばさん」
テレビの「うたのえほん」さらに「おかさんといっしょ」などは、大変な影響力を持っています。
 まさにテレビ番組の名前の通り「おかあさんといっしょ」であるのです。 

 それに引き替え、影の薄い存在感で、いまいち「不透明」なのは、「おやじさん」です。それでは
「おやじのうた」は一体どうなっているのでしょうか。

(3)「おやじ」・父親の歌
 ところで、父親を讃える歌はあるのでしょうか。思い出すとすれば軍歌の中の戦士としての
イメージしかありません。戦いに行けば、よく我慢して頑張ってくれ、と。戦が終わると無事で帰って
きてくれ、と歌われるだけで、「ははおや」にくらべてちょっと損な存在であるようです。
 これは、前に見たように、「幼児・子供と母親の関係」より、それ以上の関係を持つことが出来ない
「父親との関係」からくるところの宿命なのかも知れません。

<10>「父よあなたは強かった」ー昭和14年2月ー 作詩:福田節 作曲:明本亨静
     一番 父よあなたは 強かった 兜もこがす 炎熱を 敵の屍と ともに寝て
        泥水すすり 草をかみ 荒れた山河を 幾千里 
        よくこそ撃って 下さった
     二番 夫よあなたは 強かった 骨まで凍る 酷寒を 背もとどかぬ クリークに
        三日もつかって いたとやら 十日もたべずに いたとやら 
        よくこそ勝って 下さった
    (三番、四番、五番省略)
     (引用資料:桜川ひろ助「ポケット歌の百科」(株)永岡書店(1974))

<11>「里の秋」ー昭和20年12月ー 作詩:斉藤信夫 作曲:海沼実
     一番 しずかな しずかな 里の秋 お背戸に 木の実の 落ちる夜は
        ああ かあさんと ただ二人 栗の実 煮てます いろりばた
     二番 あかるい あかるい 星の空 鳴き鳴き 夜鴨の 渡る夜は
        ああ とうさんの あの笑顔 栗の実 食べては おもいだす
     三番 さよなら さよなら 椰子の島 お舟にゆられて 帰られる
        ああ とうさんよ ご無事でと 今夜も かあさんと 祈ります
     (引用資料:読売新聞社文化部「唱歌・童謡ものがたり」岩波書店(1999年8月))   
 

<森・森コンビの「母親」の歌>

 昭和の歌謡曲で「母親の歌」といえば、森進一の「おふくろさん」であり、森昌子の
「おかあさん」ということになりましょう。この歌を歌い始めた頃の二人はどちらも
人気者のアイドル歌手であったのですが、結果として、二人は夫婦になり、三人の男の
子の父親に、あるいは母親になり、それぞれに自分の歌った「母親」の歌には、それぞれの
立場から、しみじみと「おふくろさん」をあるいは「おかあさん」への想い出を深くした
ことでしょう。

 平和な時代になっても、明治以来の「おふくろさん」「母の歌」に、人気が衰えず、流行ると
言うことは、やはり「おふくろさん」「はは」は、人間にとって「永遠のテーマ」であるようです。
*** 森進一の「おふくろさん」***
作詩 川内康範 作曲 猪俣公章 
1971年 昭和46年

一番

おふくろさんよ おふくろさん
空を見上げりゃ 空にある
雨の降る日は 傘になり
お前もいつかは 世の中の
傘になれよと 教えてくれた
あなたの あなたの真実
忘れはしない

二番

おふくろさんよ おふくろさん
花を見つめりゃ 花にある
花のいのちは 短いが
花のこころの 潔ぎよさ
強く生きよと 教えてくれた
あなたの あなたの真実
忘れはしない

三番

おふくろさんよ おふくろさん
山を見上げりゃ 山にある
雪が降る日は ぬくもりを
お前もいつかは 世の中に
愛をともせと 教えてくれた
あなたの あなたの真実
忘れはしない
 *** 森昌子の「おかあさん」***
作詩 神坂薫 作曲 遠藤実
1974年 昭和49年
 

一番

痩せたみたいね おかあさん
ふざけておぶって 感じたの
泣き虫だったわ ごめんなさいね
明るい娘になりました
悩みがあったら 私にも
今度はください おかあさん

二番

びっくりしたでしょ おかあさん
思わず起こして しまったの
二度とその目が あかないようで
寝顔を見てたら 泣けたのよ
やさしく笑った 顔を見て
安心しました おかあさん

三番

感謝をしてます おかあさん
たまには肩もみ しましょうね
花嫁衣裳を 着るそれまでは
だいじょうぶなんて 言わないで
長生きしてね いつまでも
きれいな空です おかあさん
 この二人の「母親の歌」には、それぞれの時代の社会が映し出されています。

(1)1971年・昭和46年に生まれた「おふくろさん」によって、森進一は歌唱賞を受賞し、
   レコード大賞や紅白歌合戦で絶唱しています。NHK紅白歌合戦には、1968年・
   昭和43年から2006・平成18年まで、連続38年間出演するという記録(通算出場
   記録は北島三郎についで二番)を持っており、しかもその38年間で「おふくろさん」を
   6回(昭和46年、平成2、6,11,17,18年)も歌っています。「襟裳岬」や
   「冬の旅」でさえ、せいぜい2回であるのに、この「おふくろさん」だけは、異常に歌唱
   回数が多く、それだけ周りも本人も期待し、好んでいるということになります。

(2)昭和49年のヒット曲になった「おかあさん」は、翌年の昭和50年春の選抜高校野球大会に
   於いて、入場行進曲に選ばれ、森昌子も選抜野球大会の開会式ゲスト出演しています。

(参考メモ)

************* (参考メモ・その1)森進一の周辺  *************

<1>略歴
      本名 森内一寛(もりうちかずひろ) 1947年(昭和22年)生まれ。
   山梨県甲府市出身の演歌歌手であり、日本芸能界の代表的人物。
   鹿児島、下関などを転地、集団就職で、上京。歌手の夢を追う。アルバイトを転々。
   *1965年(昭和40年)フジテレビ系歌謡番組出場、優勝してチャーリー石黒に才能を認める。
              渡辺プロダクション入社。
    1966年(昭和41年)恩師・猪俣公章作曲、吉川静夫作詞「女のためいき」でデビュー。
             「恍惚のブルース」故・青江三奈とともに「ため息路線」で売出される。
              美声歌手が主流であった当時の歌謡界では「キワモノ」と酷評を受けた。
              ヒット曲を次々と発表。
    1967年(昭和42年)「命枯れても」
    1968年(昭和43年)「年上の女」「花と蝶」「盛り場ブルース」は軒並み大ヒット。
              第19回NHK紅白歌合戦にデビュー3年目にして初出場を果たす。
              以後、紅白には38回連続出場を果たし、トリを9回務めている。
    1969年(昭和44年)全国の港町情景織込み「港町ブルース」大ヒット。弱冠21歳の若さで
              レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。出場2回目で紅白のトリを務め、
              一流歌手の仲間入りを果たす。
    1971年(昭和46年)名曲「おふくろさん」(詞・川内康範、曲・猪俣公章)発表。
              2度目の歌唱賞を受賞。
    1973年(昭和48年)最愛の母親が自殺。ファンの一部から、全く事実無根の汚名を被せらる。
              この苦境が「演歌の枠にとらわれない歌手・森進一」へ成長。
              当時では異色の曲「冬の旅」(詞・阿久悠、曲・猪俣公章)がヒット。
    1974年(昭和49年)吉田拓郎作曲「襟裳岬」が大ヒット。日本レコード大賞、日本歌謡
              大賞など主な音楽賞を総なめにし、紅白歌合戦でも初の大トリを務める。
    1975年(昭和50年)「ああ人恋し」、1976年「さざんか」、1977年「東京物語」「雨の桟橋」
    1978年「雪よおまえは」「きみよ荒野へ」「甘ったれ」など。
                      激情的演歌(雨の桟橋)からポップス調(東京物語、甘ったれ)まで
                             様々な曲調に挑戦した。
    1979年(昭和54年)デビュー以来約14年間にわたり在籍したナベプロを独立。
              新たに「森音楽事務所」を設立して、新たな一歩を踏み出す。
              「新宿・みなと町」を再起を賭けて発表し、大ヒット。
    1980年(昭和55年)当時人気ナンバーワン女優大原麗子と結婚。大原との結婚は長く
              続かず、一度目の結婚はわずか4年で離婚という結末を迎える。
    1982年(昭和57年)「冬のリヴィエラ」が大ヒット。「命あたえて」「恋月夜」
              「モロッコ」「男の真情」「冬桜」「紐育物語(NewYork Story)」。
    1984年(昭和59年)ユニセフ親善大使の職を拝命
    1985年(昭和60年)社会福祉活動「じゃがいもの会」立ち上げ。黒柳徹子がこれに賛同、
              その他歌手仲間として、原田直之、小林幸子、森昌子らが参加した。
              歌手以外の社会的活動家としての「森内一寛」の一面が開花し、
        1986年(昭和61年)交際から約1年半後森昌子と結婚。森昌子は歌手を引退、3児を授かり、
              理像的な家庭像・夫婦像の象徴としてのイメージが森夫妻に定着した。
    1988年(昭和63年)長野冬季五輪委員会理事、カンボジア地雷除去キャンペーン活動
              発起人など、数多くの福祉・社会的活動に参画。
    2002年(平成14年)妻・昌子とジョイント・コンサートを実施。デュエットソングも
              2曲発表している(書籍扱いという異色の発売方法)。

<2>最近の話題
    2005年(平成17年)昌子との意見の相違等により、結婚19年目の芸能界随一のおしどり
              夫婦は別居。その心労もあって都内の病院に入院。
    2007年(平成19年)2月21日の新聞報道に依りますと、
              ー歌手森進一(59)が恩師作詞家川内康範氏(86)と代表曲
              「おふくろさん」をめぐり、泥仕合に突入しているーと。
               曲にバース(曲頭のセリフ)を了承していない川内氏が
              「もう歌わせない」と激怒。バースは30年以上も前に出来
               上がっていたことから、森は「なぜ、今になって…」と戸惑いを
               隠さない。都内で会見を行ったが主張は平行線のままだった。


************* (参考メモ・その2)森昌子の周辺  ************

<1>略歴
   本名 森田昌子(もりたまさこ) 1958年(昭和33年)生まれ。
   栃木県宇都宮市出身のアイドル・歌手・女優。元NEWS森内貴寛ほか三人の男の子の母親。
   宇都宮の小学校から、四年生の時、東京に引っ越し。港中学、小野学園、堀越高校卒業。
   *1971年(昭和46年)12歳で日本テレビ系スター誕生に出場。初代グランドチャンピオン。 
    1972年(昭和47年)「せんせい」で歌手デビュー。翌年デビューした同学年の山口百恵、
             桜田淳子とともに「花の中三トリオ」と呼ばれる。 
    1973年(昭和48年)松竹「男じゃないか・闘志満々」映画デビュー。「としごろ」で主演に
             抜擢される。 
    1975年(昭和50年)「花の高2トリオ・初恋時代」で初めて山口・桜田と共演。 
    1977年(昭和52年)堀越高校卒業。同期生に岩崎宏美、岡田奈々、池上季実子らがいる。 
    1977年(昭和52年)「なみだの桟橋」以降、本格的な演歌歌手への道を歩み始め、
             「彼岸花」など、実力派歌手へと成長。
    1981年(昭和56年)「哀しみ本線日本海」出場9回目、弱冠23歳、初の紅白・紅組トリ。 
    1979年(昭和54年)新宿コマ劇場で史上最年少女座長として「森昌子公演」を行う。 
    1983年(昭和58年)「越冬つばめ」で第25回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。 
    1984年(昭和59年)NHK「みんなのうた」で「海へ来て」を歌う。 
    1985年(昭和60年)紅白歌合戦で初の紅組司会及び大トリを務める。「愛傷歌」を
             号泣して歌えず、紅白史上に残る名シーンとして語り継がれている。 
    1986年(昭和61年)10月1日 演歌歌手の森進一と結婚。これに先立ち8月、引退コンサート
             及び引退記念曲「〜さようなら〜」を発表し歌手業を引退。 
    2001年(平成13年)紅白歌合戦へ16年ぶりに出場。これを機に限定的ながら復帰
             (※夫婦共演形式でのコンサートツアー及びCD吹き込みのみ)。 

<2>最近の話題
   *2005年(平成17年)二月に薬物を大量に飲んで入院騒ぎを起こしてから、森進一との
             仲もあれこれ取りざたされ、四月に離婚します。
   *2006年(平成18年)三月から、嘗ての所属事務所に籍を置いてソロ歌手として
             再出発します。
             五月には「NHK歌謡コンサート」テレビ出演し、六月には新曲
             「バラ色の未来」を発売します。年末のNHK紅白歌合戦にも
             五年ぶりに出場し、森進一との同じステージが注目されていましたが、
             すれ違いで終わっています。
   (1985年のNHK紅白歌合戦には森・森コンビが「トリ」を勤めたのですがね。
    男女の中はなかなか一筋縄ではまいりません。)
   *2007年(平成19年)四月のNHK朝の連続テレビ小説「どんど晴れ」で女優業も
             こなして行く予定のようです。


平成19年3月15日   *** 編集責任・奈華仁志 ***

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