平成社会の探索


ー第68回知恵の会資料ー平成19年3月4日ー

<「知恵の会」への「知恵袋」>


(その13)「桃山」命名考
ー城破れて桃山ありー


*太閤秀吉伏見城桃山は太閤秀吉大阪城桃園へ*
城内京橋付近の桃園の桃は3分咲き(桃の陽気の平成19年3月1日)


<京の夢ー桃山ー(秀吉の伏見城)>

1.日本史に於ける「安土桃山時代」
 日本歴史を学習するとき、一般的に「安土桃山時代」(織豊時代)と「桃山文化」という日本歴史
時代区分用語が用いられます。
 「・・・織豊政権の時代を一括して安土・桃山時代と呼ぶことが学会の慣行となっておる・・・」
  (芳賀幸四郎「日本歴史新書ー安土・桃山時代の文化」(昭和40年6月))
 その典型的な解説文(小学館「日本歴史大事典ー1」(2000年7月))に依りますと、次の
ようになっています。

 「安土桃山時代(あづちももやまじだい)」
  織田信長と豊臣秀吉が政権を握っていた時代。大凡30年間。
  信長の居城である近江国安土城と秀吉が晩年文禄元年(1592)から居た山城国伏見城
  (桃山城)の名をとって時代区分名とする。

  (注)信長 永禄十一年(1568)足利義昭を奉じて京都に入り、幕府再興と新政権樹立。
        天正 四年(1576)安土城築城。
        天正 十年(1582)本能寺の変。 織田政権14年間。
     秀吉 天正 十年(1582)天王山・山崎合戦で明智光秀を討伐。
        文禄 元年(1592)伏見城築城。
        慶長 三年(1598)伏見城にて没。豊臣政権16年間。

  <桃山の地名は江戸時代に出来たので、「桃山時代」というのは正確でないという意見もあるが、
   文化史的な概念として、この時代の城郭と絢爛豪華な雰囲気を表現しているため慣用される。>

2.「桃山町」の命名
 嘗ての伏見城は元和五年(1619)に城破却が決定され、寛永元年(1624)取壊しが完了
し、跡地は田畑となり寛永二年(1625)に検地が行われて堀内村(ほりうちむら)が
成立して伏見奉行配下に入りました。村内の傾斜畑地を使って桃が植えられ、桃の実が収穫されて
いたので、伏見丘陵に於ける桃に関する初見文献は延宝二年(1674)頃で「伏見里、桃花盛」と
言及されているのです。また元禄期には、既に桃花の名所として地名も「桃山」と呼称されていた
ようです。(儒学者貝原益軒(1630〜1714)「京城勝覧」に言及あり)
 従って十七世紀後半には、伏見山一山が桃の花で咲き乱れていたのではないでしょうか。そして
江戸の中期には桃の木は山一面に群生していて、十八世紀後半には既に「伏見山」でなく「桃山」と
言い慣らされていたのでしょう。延享四年(1747)約5500本の桃の木があったと記されて
います。伏見の里はその後、単なる桃の山だけに納まらず、安政年間(1854〜1860)、
永井久太郎屋敷跡(現在の町名永井久太郎)に桓武天皇柏原陵が発見されます。また明治天皇御陵が
伏見桃山陵となり、昭憲皇太后の伏見桃山東陵がおかれ、続いて乃木神社も建立されました。
 なお、堀内村の地区名は昭和六年(1931)京都市伏見区に編入されたときから桃山町を
用いるようになったとのこと。平成19年(2007)は、伏見区誕生75周年にあたる。
      (引用資料:「京都の歴史ー16・伏見区」平凡社(平成三年一月)より)
             
3.「安土桃山時代」「桃山文化」の時代区分名の命名
 では、いつ頃からだれが「桃山時代」区分名を命名し、慣用しはじめたのでしょうか。  
 著名な日本歴史概説書をあたってみますと次のようになります。

(1)頼山陽(1780〜1832)「日本外史」22巻(1836年頃の著述)
   (岩波文庫1801〜1802・昭和14年)
   巻之十三〜巻之十七を「徳川氏前記」として織田氏篇(上)(下)および豊臣氏(上)(中)
   (下)合計五巻を充てている。「桃山」歴史用語は用いていない。
(2)田口卯吉(1855〜1905)「日本開化小史」六巻(明治十年・1877頃)
   (講談社学術文庫・昭和56年11月)
   第九章 戦国乱離のありさまより二千三百年(1640)代のなかごろまで
   織田・豊臣・徳川三氏の勢力と言う見出しで解説し、「桃山」歴史用語は用いていない。
(3)重野安繹(しげのやすつぐ)「稿本国史眼」七巻(明治24年・1891)
   (帝国大学蔵版)
   巻之五 第十七紀 第百四十五章 織豊二氏 逓興(たがひにおこる)
   織田・豊臣二氏の時代として「桃山」用語は見あたらない。
(4)竹越与三郎(1865〜1950)「二千五百年史」(明治29年5月刊行)
   (講談社学術文庫・平成2年1月)
   第二十二章 戦国時代 第二百九十六節 織田信長
   第二十三章 秀吉の一統 第三百十四節 秀吉の人物および地位
   第二十四章 徳川氏覇権の確定 第三百四十二節 徳川家康の人物および位地
   「桃山」歴史用語を用いていない。

(5)渡邊世祐「訂正増補大日本時代史」(大正五年四月二十八日発行)
   (早稲田大学出版部)「安土桃山時代史」再版はしがきより
   「明治40年3月初版成りしより、既に八星霜経たり。・・・・」
   「・・・余は嘗て「文科大学に学び、田中文学博士に就きて織豊時代の講義を聴き、
    三上文学博士に就きて松平氏の勃興より徳川時代に亘れる講義を聴くの栄を得たり。
    両博士の講義共に安土桃山時代に関するものなれば、・・・・」
(6)吉田東伍「倒叙日本史」(大正二年六月二十五日発行)
   第八編近世紀之五 織田豊臣氏編総説 第五章豊臣氏の政治 桃山時代の美術
   「・・・美術史家の謂はゆる、桃山式是れなり。(桃山とは、伏見城破壊の後、此に桃を
    栽ゑられければ、木幡山を桃山といふのみ)伏見桃山の殿閣と推して、其の標準と為す。」
(7)黒板勝美「国史の研究」東京・文会堂出版(大正二年十一月八日出版)
   第四章 一般史と特別史 第一 時代的区分法 我が国史の三大時代 三 武家の時代
   (ヘ)豊臣時代 
    「・・・或いは織田時代を安土時代、豊臣時代を桃山時代といふことになって、
     一見、鎌倉時代、室町時代、江戸時代等、相応ずるが如きも、信長の安土に
     居りしは稀にして桃山といふ地名も当時まだなかったのである。」
(8)日本歴史地理学会(代表・岡部精一)「安土桃山時代史論」(大正四年・1915・三月出版)
   (仁友社・昭和51年9月・日本歴史地理学会復刻版)
   明治44年8月同学会大津講演会の講演筆記編集冊子。題名に「安土桃山時代」を用いている。
   *文学士福井利吉郎「桃山時代の美術」「・・・桃山時代は日本美術史上一時期として
             極めて短いものでありますが、・・・普通桃山時代と言へば、天正十年
             本能寺の変以後、慶長三年秀吉の薨去に至までを指す・・・」
   *文学士中山再次郎「桃山城址」「・・・伏見城址といひたいけれども今一般の称呼に従ふ。」
(9)徳富蘇峰(1863〜1957)「近世日本国民史」(大正七年・1918出版)
   (講談社学術文庫・昭和55年11月)
   豊臣秀吉(四)豊臣氏時代庚篇・第四章 桃山時代概観 一桃山時代
          (大正十年八月八日起稿)
   「今此処に桃山時代というは、秀吉時代というと、同一意義だ。」と解説している。 


*****  参考情景1.京都市伏見区桃山町地区に桃の木は何本あるか?  ******

 JR奈良線が桃山町を大きく迂回している当地区の主な施設群は、北東部の伏見北堀公園、
キャッスルランド、伏見桃山城、桓武天皇柏原陵、明治天皇伏見桃山陵、明治天皇皇后伏見桃山東陵、
乃木神社、さらに宮内庁書陵部の事務所等です。
 これらの地域の南辺一帯は学校が並んでいます。(桃山東小学校、京都橘女子高等学校、桃山小学校、
桃山高等学校など)
 桃の木の桃園や桃山があるとするならば、さしずめ「キャッスルランド」辺りということになり
ましょうが、春の観光シーズンでは、「伏見桃山城」や「御香宮神社」の「桜」ということに
なっていて、桃は見あたりません。桃の木は、いったいどこへいったのでしょうか。
 伏見区桃山町の現況地図と「伏見桃山城」の景観写真は、添付の通りです。

(左)桃山地区の地図(右)「伏見(桃山)城の鳥瞰図」

(左)明治中頃の桃山地区の地図(右)桃山駅に桜開花の新聞記事(京都新聞2月7日付け)
**********  参考情景2。「伏見城」は「伏見桃山城」へ  ************
 伏見の丘陵地は、秀吉の伏見城築城以来、いろいろに変貌を遂げてきました。伏見城廃城後は、
桃山となり、皇族の御陵となり、さらには、庶民の娯楽センター伏見城・キャッスルランドとなり、
その歓楽の夢も覚めて、今やお城付の単なる公園となって庶民の憩いの場に落ち着きました。
 あれこれと時代に引きつられて変貌を遂げてきた伏見桃山の地は、どうも夢が叶いそうで叶わない
土地柄なのでしょうか。

 「伏見桃山城キャッスルランド」は、昭和39年(1964)近鉄系列グループ企業が敷地面積
約10万平方メートルの敷地内に模擬伏見城と小天守を鉄筋コンクリート構造で設置し、併せて
各種遊戯施設とプールも擁したレジャーセンターとして誕生しました。開園後十数年間は年間
約百万人もの入場者で賑わいましたが、平成15年(2003)1月末で、経営が困難に陥り、
閉鎖されました。

「レジャーランドより、桃の木の桃源郷を!」
 秀吉の「伏見城」同様、「伏見桃山城」(キャッスルランド)も秀吉の遺言のとおり、
  「つゆと落ち つゆときえにし 伏見城 レジャーランドも ゆめのまたゆめ」

 昔に戻って「ゆめの桃園ー桃源郷」にしては如何でしょうか。
 以上で、第一の「桃山」の夢は覚めました。

<大坂の夢ー真田山ー(秀吉の大阪城)>

 「京の桃山」が「太閤さんの伏見城」であるなら、「大坂の桃山」は同じ「太閤さんの大坂城真田山
南の桃谷」に当たります。
 当該地域は上町台地の東側斜面に当たり、天王寺区小橋町西で百済野とも重なる地域になります。
現在の住所名でみますと、JR環状線桃谷駅およびその東側で、生野区桃谷に名残が見られます。
 嘗て北は玉造から南は天王寺周辺まで一帯が桃畑で、春の開花の頃は桃の花見客で賑わったという
ことです。桃の花見の中心地区には周辺の共有灌漑池「味原池」(白鴨御池(摂津名所図会)、
梵字ヶ池(大阪府全史))があり、その南畔には式内社比売許曽(ひめこそ)神社境外末社である
産湯神社(産湯稲荷)があって、ここには大坂六清水の一所「産湯の清水」が湧出し、近くの小丘を
法蔵山(愛来自山)と称し、付近一帯を「桃山」と俗称され、大坂屈指の大桃林として遊覧の地と
なったようです。嘉永・安政年間(1850〜55頃)の書物「浪華の賑ひ」によりますと、次の
ような賑わいが記されているのです。

 「すべてこの辺は、一円桃畑にして、弥生の初旬、花の頃は老若男女うち群れて野径に充満す。」

 ところが明治28年(1895)5月28日大阪鉄道城東線(現在の環状線)が天王寺から玉造駅
まで敷設されますと、沿線の桃畑も市街化が進み、名所の桃樹も消えていきました。したがって、
桃の名所であったのは明治38〜39年頃までです。(参考資料:「大阪市・天王寺区史」より)
 因みに環状線が開設された当時、現在の「桃谷駅」は「桃山駅」であったのです。前述の京都伏見の
鉄道敷設は奇しくも同じ明治28年(11月3日)で、伏見駅から「桃山駅」まで開通していますから、
一時期、京都と大阪それぞれに「桃山駅」があったことになります。その後、大阪の「桃山駅」は
混同を避けるため「桃谷駅」に改称(明治38年・1905)したのかもしれません。

弘化四年(1847)頃の「味原池」付近の地図

「味原池」該当地の現在の地図

「味原池」跡地と推測される筆ヶ崎町の地図
 嘗ての桃山地区にある「桃山病院」は明治18〜19年頃流行した天然痘・痲疹・コレラなどの
ために明治29年に痘苗製造所が設立されたのがその前身です。明治36年頃、「石ヶ辻町辺りは
当時、上本町以東人家は全くなく、両側は茨垣の小路で、梅林か桃畑ばかり、東の突き当たり、即ち
現今の赤十字病院の処にミッション・スクールの私立桃山中学校」(「天王寺区史」より)があった
ようです。その跡地には明治42年赤十字病院が設立されました。
 現在でも当地区周辺には大阪警察病院や大阪逓信病院(現在NTT西日本病院)など、あるいは、
ノーベル賞物理学者湯川秀樹博士の親戚筋に当たる「湯川胃腸病院」があり、さらには上述の
「味原池」の跡地に建設されているのではないかと推測できる「早石病院」など、病院施設が集中
しているところです。
 因みに筆者は桃山の跡地近くで中学・高校生活を送りました。嘗て当該地区には「桃山病院」があり
ましたが、「桃山」も「桃谷」と土地名称を変えて伝承されています。天王寺区の南・阿倍野区内には
「桃山学院高等学校」(明治35年開校)さらには、「桃山学院大学」(昭和34年開学)などに
名残が見られますが、現在は「桃谷」以外、「桃陽小学校」さらには、「味原池」跡近くに「桃陽
会館」(老人憩いの家)、「桃山温泉ータック桃山」などの施設が嘗ての「桃山」を連想させてくれる
地域名称になっています。

<(参考メモ・その1)摂河泉の「桃山台」>

(1)摂州ー吹田市桃山台の「桃山」
     (引用資料:吹田市「吹田市史」あるいは「千里の歴史と伝統」
           千里20年祭実行委員会 昭和57年10月31日より)
   吹田市北部のいわゆる「千里ニュータウン」は、嘗て千里丘陵地として、上新田(現在の
  千里中央南周辺)・下新田(桃山台周辺)地区では江戸末期の天保年間(1830〜44)
  から、山田(千里万博公園南)地区では明治の初め頃から、桃の栽培に目を付けたようです。
   千里丘陵には昔から野生の桃やハタンキョウが自生し、峠の茶屋では、季節になると土産物
  として売っていたという。野生の桃が改良されて甘みを増した桃は「千里の桃」あるいは、  
  「稲田桃」などとして桃の缶詰商品にまでなって出荷されていました。桃以外にも蜜柑などの
  果樹も栽培される農園があり、さらには竹林と水田の地帯でもあったのです。特に垂水(千里山
  関西大学の南)地区は桃林が有名で、シーズンには多くの行楽客で賑わったとのこと。
   ところが大正の初め、桃樹の害虫であるテングイ虫の大量発生で桃造りは全滅の被害に遭い、
  桃の果樹栽培業は、全面的に筍作りに転換していったのです。
   加えて大正九年(1910)大阪住宅経営株式会社が千里山開発として「千里山住宅地」の
  事業に乗り出し、千里村佐井寺地区約14万坪を買い付けました。大正13年(1924)当時
  約170戸・人口約300人の町に発展したとのこと。
   更に大正10年(1921)には、「千里山花壇」という遊園地も開園し、昭和21年
  (1946)には、飛行塔、子供汽車、動物園までに発展したのです。

大正期の「千里山住宅地」の地図
   
   明治19年(1886)大阪市内(西区京町堀願宗寺)で開校した関西法律学校は、大正7年
  (1918)に大學に昇格し、開校後約36年後の大正11年(1922)千里山校舎を開校し、
  関西大学の本部に成ります。
   その後、約40年経った昭和37年(1962)大阪府企業局は本格的な「千里ニュータウン」
  の建設に掛かり、「桃山台」と共に佐竹台、高野台を開発しました。この「桃山台」地区は、
  嘗ての桃林の名残りと言えましょう。
   なお、当該地区の農作物については、昭和45年(1970)大阪農林水産統計年報に
  よりますと、桃の生産額はゼロ屯になってしまっています。昭和の終わり頃まで、下新田地区の
  一角では部分的に桃の栽培が行われていたということですが、現在では、皆無に近いでしょう。

(左)大正期の桃の千里山(右)現在の阪急千里沿線略図
   
(2)河州ー羽曳野市桃山台の「桃山」(引用資料:羽曳野市の公式ホームページより)
   羽曳野市は大阪府内東南部に位置する衛星都市として昭和34年市政を布きました。
  「市の花」は「桃」で、市の中央部にある羽曳き山周辺が有名な桃の産地であったことに
  よっており、羽曳が丘コミュニティセンターの愛称は「モモプラザ」であり、市内の小学校の
  校歌や校章にも「桃」が用いられているとのこと。

(3)泉州ー堺市南区(泉北ニュータウン)桃山台の「桃山」(引用資料:堺市公式ホームページより)
   昨年政令都市に昇格した堺市に所属する「泉北ニュータウン」内に「桃山台」があります。
  これは開発した大阪府が先例の「千里ニュータウン」に習って、当該地区がニュータウン造成前
  (昭和47年4月)丘陵一帯に桃が栽培されていたことに因んでの命名となっています。   

(左)羽曳野市「桃山台」周辺の地図(右)堺市・泉北ニュータウン「桃山台」の地図

<(参考メモ・その2)紀州の桃山>

 
 紀伊国では果実の生産が盛んです。昔から「紀州といえば蜜柑」ですが、加えて「梅」では、
南部地域の「みなべの梅」があり、北部紀ノ川添いに位置する桃山町の「安楽川の桃」が名産品と
なっています。現在もこれらの果実生産は地域の重要な産物です。
 
 和歌山県那賀郡桃山町(平成の自治体大編成で紀の川市となる)は紀ノ川左岸に位置し、紀ノ川と
岸川合流点東南部に位置し、東西10km南北6kmを占めています。町の産業は農業、林業、養蚕、
機織などですが、特に果実栽培で「安楽川の桃」県下第一の生産量で、町名もこれによっています。
 明治22年(1889)町村制施行で安楽川村が成立し、昭和31年(1956)周辺の
調月(つかつき)および奥安楽川村と合併して、桃山町となりました。
 
 桃の栽培は元禄年間(1688〜1704)摂津国より苗木を移植したと推測されていますが、
天明二年(1782)村垣八十八(惣八)が摂津国池田庄より桃樹を導入したと記されています。

(左)桃山町周辺の地図(右)紀の川市の桃山まつり



京都御苑・蛤御門東苑の桃林風景・未だ蕾かたし(陽春の天候・平成19年2月7日)

次いでに<このーき、なんのき、きになるき>の<ぎょえんのき>(京都御苑内の樹木)

平成19年3月1日   *** 編集責任・奈華仁志 ***

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