平成社会の探索


ー第67回知恵の会資料ー平成19年1月21日ー

「知恵の会」への「知恵袋」


いのししイメージ(その1)
ー花札の7月は、いのししに萩の図柄ー
花札は「花かるた」ともいい、トランプ、
麻雀に並ぶ日本の代表的な遊び道具。
歴史は16世紀末の天正年間に
オランダの水夫が長崎に伝えた
「うんすんかるた」に由来し、
明治20年代に現在の花札になる。
花札は花模様が描かれた48枚の札で、
12カ月に分けて、絵模様と
月別で点数をいろいろにきめている。
7月の花の種類は「萩」で、猪が10点札、
萩に短冊が5点札となっている。
花札の遊びの一つに
「猪鹿蝶(いのしかちょう)」がある。

(その11)「童遊びーいのこ(亥子)」

<「いのこ」とは>

 「いのこ」(亥子・猪子)とは、百科事典(小学館)によりますと、次のような儀式です。

(イ)陰暦十月(亥の月)の亥の日
   中国の俗信による平安朝の儀式として、この日の亥の刻(午後九時〜十一時)に新穀で
   搗いた餅を食べて無病の呪いとすべく祝うこと。
   (注)どうして「亥の日」を節日(せちび)に撰んだのかは不明。
   宮廷行事として平安初期から行われ、内蔵寮(くらのつかさ)より猪子形に作った
   「亥の子餅」を献上した。
   (注)源氏物語での言及例(池田亀鑑「合本・源氏物語事典」東京堂出版(平成元年6月))
      「ゐのこもちひ」として葵の巻に「その夜さり、亥の子もちひまゐらせたり。」と
      記されている。
(ロ)いのこ餅の略
   「亥の子餅」は上述の行事に用いられるもの。
(ハ)童遊びの一種
   後世、民間では収穫後の祭日として、新穀の餅を搗いて食べ合う儀式で、西日本で
   盛んであった。
   子供の行事としての「亥の子突き」といって子供達が藁束や石で地面を打ち回る遊び。
   万病を払うためとも、いのししの多産にあやかった子孫繁栄の呪いとも言う。
(ニ)「十日夜(とうかんや)」の儀式
   冬時節への準備事として、近世、この日から炉、こたつを開き、火鉢も出す習慣あり。

 「亥の子餅」と「亥の子祭り」の関係事項を追記します。なお「亥の子突き」については、
後述します。

(注1)「亥の子餅」
    「玄猪(げんちょ)」「厳重」「おなりきり」「おなれぎり」「おまいりきり」とも
   言われ、食すると無病息災という俗信があった。。
   中国では大豆、小豆、大角豆(ささげ)、胡麻、栗、柿、糖の七種を用いて作っていた。
   日本では平安期・寛平頃、これに習って色餅を供御(くご)に用いていた。
   室町時代には白・赤・黄・栗・胡麻の五色を作ったとされる。この餅は当初は、宮中や
   将軍に献上する物であったが、後に宮中や将軍から下賜されるようになり、貴族間では
   贈答し合うようになった。

(注2)「亥の子祭り」あれこれ
   稲の取り入れ時期にあたる習俗として、稲の収穫祭と結びつき、土地によって「亥の子」を
   いろいろに祭る風習が見られます。
   農村の信仰では「亥の子の神」を「田の神」(作神(さくがみ)歳徳神(としとくじん)
   とも言われる)と信じたところが多く、収穫祭としての「亥の子祭り」であったようです。
   亥の子神は、春来て秋去る神と考えて春秋の亥の子を亥の子神の去来する日とする地方も
   あります。
    
   (イ)炉開きと炉塞ぎ:十月亥の日の炉開きと三月晦日の炉塞ぎ
      鳥取県東部では、炬燵を十月「亥の子」に開け、二月の春「亥の子」に片付ける。
   (ロ)鹿児島県では、十月亥の日に下男下女が蓑を着て飯匙を手に持ち、田の神に扮して
      「田の神舞」をする。
   (ハ)壱岐・対馬では、「愛敬(あいぎょう)どん」という神を十月亥の日に祭る。
      (愛敬どんという人が亥の子の晩に旅に出て留守だったので、かげ膳を据えたのが
      始まりという。
   (ニ)福岡県柳川市では、十月初亥の日に「エエキョエエサツ(愛敬挨拶)」という祭りで、
      子供が「ええきょええさつ、なかのよかごと」と唱えながら各家の店先に出してある
      小豆飯と膾(なます)に添えてある柳木の太箸で一箸づつ食べてゆき、餅や蜜柑を
      与える風習有り。
   (ホ)福岡県宗像郡地ノ島では、亥の子神は愛嬌の神様で子供がお好きだとの信仰有り。   
      (愛敬様の信仰と亥の日の信仰が一緒になっている)
   (ヘ)関東以北、長野、山梨、群馬、埼玉周辺で、十月十日の「トウカンヤ(十日夜)」
      行事有り。(埼玉県川越地方や千葉県君津郡などでは、十日夜と亥の子が交錯する。
      亥の子の藁束のような「藁鉄砲」で子供が打って遊び、<むぐら除けのまじない>と
      する土地もあり。

    「いのしし神社」と別称されている京都御苑蛤御門西側「護王神社」での「亥の子祭り」を
   後述の「いのしし雑学」のメモ書きに追記しておきます。

<子供の「亥の子突き」>

(1)「亥の子突き」のやり方
   亥の子に使う道具は土地により「亥の子槌」「亥の子ばい」「亥の子すぼ」「ぼてりんこ」と
   呼び、そのまま行事の名前になっているところもあるようです。
   地域によって地面を突く道具には次の二種類あるそうです。
   (イ)丸い石に縄を何本もつけて、空中へ引き挙げては落として地面を搗く方法。
   (ロ)藁棒を束にした棒状のもので地面を打ち回る方法。
   これらを家々の前で打ち回って歌や唱え事をいい、蜜柑、餅、銭などを貰うのです。
   (イ)「亥の子餅をつかん者は鬼を生(産)め、蛇を生(産)め、角の生えた子を生(産)め」
   (ロ)もの貰い出来れば「繁盛せえ、繁盛せえ」と祝う。
   (ハ)くれないと、「貧乏せえ、貧乏せえ」と悪口を言う。

   「亥の子突き」の名称から、狩人が猪を仕留めたときに集まり、猪の四足を各人が捕らえて
   胴上げをして喜びを表現した形態を模したものという推測も為されています。
   また、亥の子の石搗き跡の大穴は、田の神が訪れた証拠であるとして、六日間は、そのままに
   して殊更跨いだり、踏まないようにしたという。
 
(2)各地の「亥の子突き」の風景
   (イ)江戸時代の絵本や昭和の子供の風景

(左)引用資料:日本風俗史学会「縮刷版・日本風俗史事典」弘文堂(平成6年2月28日)
(右)引用資料:「ふるさとあそびの事典」東陽出版株式会社(昭和51年2月22日)

(左)亥の子搗き(広島県三原市)、引用資料:「日本大百科全書2」小学館(1989年7月)
(右)十日夜(長野県)、引用資料:「ふるさとあそびの事典」東陽出版(昭和51年2月22日)
   (ロ)「亥の子突き」の囃子歌の例
      おいのこさん、おいのこさん、おいのこさんをいわいましょう
      いちに たわらふんばって、ヨンサノヨンサ  にで  にっこりわらって
      さんで さけをのんで   よっつ よのなかよいように
      いつつ いつものごとくに  むっつ むびょうそくさいに
      ななつ なにごとないように やっつ やしきをひろめたて
      ここのつ こぐらをたてそめて とうで とうとうおさめた
      エーヤ、エンヤラヤ、ウェーイー ウェーイー 
      ここのイエョー はんじょうするように、ヤンサ、ヤンサ

      「かっての子供達は、亥の子突きの遊びの楽しみを脳裏に納め、十月は亥の月で、
       この月の亥の日の来るのを楽しみにしていたことが推測される。
       子供達は四季の移り変わりを遊びの世界を通じ、遊びという過程に於いて学習し、
       自然のリズムを感得し、自然の変化と共に生活し、人間的成長の道を辿って
       きたのである。」
      (引用文献:半澤敏郎「童遊文化史」(I)東京書籍(株)(昭和55年6月30日))

             大阪府下周辺に伝わる「亥の子唄」の歌詞の一例
      共通の歌詞は、
      「亥の子の晩に じゅうばこひろて (中)開けてみれば(みたら)」
      後半の歌詞はすこしずつ異なります。
      「ホカホカまんじゅにぎってみれば じゅうべさんのきんたま」(大阪各地)
      「じゅうべ(え)さんのきんだま」(飛鳥、両国、道祖本)
      「ちゅうべえさんのキンダマ」(光明町)
      「じゅうやんのキンタマ」(豊中)
      「じろやんのおきんだポテン」(日の出)
      「おとったんのキンタマ」(矢田)
      「じゅうべえさんのおおきんだあ おおきんだ」(池田の石搗き唄)
      「ホコホコいっとったいっとった」(北芝)
      これらの少し異なる歌詞のものもあります。
      「ここのざしきはよ めでたいざしき ざしき 
       つるとかめとが よホホイ まいをまう まいをまう」(池田、鶴原の石搗き唄)
      「亥の子の晩にボタもちいわいましょ ひとつやふたつであきません
       おひつにいっぱいいわいましょ ひとつ ふたつ」(下田 野間 木代)
       (引用資料:大阪人権歴史資料館ー調査報告書I「被差別部落の女と唄(資料編)」
             1993年3月31日発行)
       
   (ロ)各地の伝統的「亥の子突き」
     *鹿児島県肝属(きもつき)郡の「亥の日祭」(旧暦十月亥の日)
      餅を搗き赤飯を炊いて祝う。十四、五歳までの子供は石に縄を付けて引き歩き、
      家家の前で、家を祭るといって地面を突く。
      「いぬのひの餅はくわんとこせ、あれ(米の粉)がのうして、くわんとこせ」
      家々は子供に金銭や餅を与える。
     *徳島県北部の「石亥の子」(十月亥の日)
      石に綱を沢山付けて、子供が集まって石突きをする。
      藁ぼてで地面を突くところもあり。
     *対馬の「亥の子ぼり」(旧暦十月初め、亥の日)
      子供が組みをなして妊婦のある家に行き、細長い石に輪をはめたもの、松の木棒に
      綱を付けたもので地面を突き、穴を掘りながら、
      「子もて、子もて、息子もて、子もて、卵のような子もて」とはやし、亥の子餅や
      菓子をもらう。
     *香川県仲多度郡の「てんこのばん」
      藁束を綱で巻いた「てんこ」をもって、子供達が家々の敷石などを叩いて回る。
     *奈良県の「デンゴロ打ち」
      藁束を綱で巻いた者を「デンゴロ」と称し、亥の子の行事としている。
      
     (参考資料)鈴木藤三「日本年中行事辞典」角川小辞典16(1989年10月30日))

<大地を叩くこと>

(1)土の神への祭祀
   「亥の子突き」での動作である「大地を打つ」という目的と意義は、何なのでしょうか。
   亥の子の石や藁束の道具に生産の力を認め、「大地にこれらを突き込める呪術」の一種と
   考えられています。したがって、正月の嫁の尻叩き、果樹責(かじゅぜめ)、小正月の
   土竜送り(もぐらおくり)などと同様の祭祀ということになると見なされています。
   土地によっては行事の初めに、「亥の子石」に御幣を飾ったり、お供えしたりします。
    因みに愛媛県では、亥の子の石槌を「ごうりん石」、すなわち「降臨石」と呼んで、
    石には神が宿り、神秘な呪力を持つと信じられています。

   その他に、「亥の子突き」と同様な土地の神への祭祀として、古い歴史のある農村や
   山奥の村落に残る風俗に、何かそのような痕跡が伝承されているのではないでしょうか。
   (注)(イ)山形県鶴岡市櫛引町では、毎年2月1日から2日に夜を徹して行われる
         王祇祭の稚児舞「大地踏」が行われるが、神事の場で王祇様と呼ばれる
         白布のなかで、大地の象徴である座敷を踏むことによって豊かな実りが
         約束されるという儀式。
      (ロ)山梨県身延町の西嶋神楽(沢奥のお祭り)では、少年神楽団が「邪気を禁じ
         閉塞して正気を迎え、幸を開く」ための祈祷の舞「御反閉」を行います。
         猿田彦命の面を付けた榊鬼(さかき)という威力ある神が大地を踏んで、
         悪魔を踏み鎮め、悪霊を追い出し、神霊を招くという祓い清めの所作です。

   日本古来の宗教である神道の場合、神は万物のなかに存在するとされます。神道儀式では
   空の彼方に「坐す神」を何か身近な物(樹木、岩石、など)に「降臨」願い、儀式を
   司ってもらい、人間の祭祀を見守ってもらう様式をとっています。神事の芸能での足拍子や
   民間行事としての盆踊りなどでの足の使い方などは、古来行事の「反閉(へんばい)」と
   言われる行事は、大地の邪気を祓い、生気を強めるような意味が含まれているのでしょう。

(2)陰陽道の「反閉(へんばい)」ー陰陽道の呪術的所作のひとつ
   その場の邪気を祓い、場の気を鎮め整えるもので、呪文を唱え、特殊な足どりで地を踏むもの。
   古来、貴人の出行時、陰陽師が行ったもので、かの安倍晴明などは、上皇の御幸や道長らの
   移動や転居には、幾度となく「反閉」を行ったという。
   日本芸能、たとえば神楽に始まり、盆踊りに至るまで、各種の所作での足の踏み方は、
   全てこれらの「反閉」に関わっているではないでしょうか。

(3)相撲の「しこ(四股)」
   土の神への祭祀の一形態と思われる儀式で思い出されるのは、相撲の儀式に於ける「しこ」を
   踏む動作です。大地にどっかと両足を押し付け、叩きつけ、大地を確かめる行為について
   相撲解説書(金指基「相撲大事典」(財)日本相撲協会監修(株)現代書館(2002年1月13日))
   に依りますと、次のようになっています。
   「古来、四股は「醜(強いもの、醜いもの)」に通じ、四股を踏むことは地中の邪気を祓い、
    大地を鎮める神事から発したものと言われる。「地踏み」「地固め」なども関連事項となる。

    (注)世界の民族儀式における大地への感謝
    世界各地の原住民の間には「亥の子突き」と類似の「大地の神への祭祀行為」があるように
    推測されます。太陽や雨、風、さらに海や川の大自然に対する人間の真摯な気持ちが
    民族儀式になっていると思われる事例は多々あると思われます。


いのししのイメージ(その2)
ーいのしし神社(護王神社)の狛いのししー
京都御所西側、蛤御門前の護王神社は
「いのしし神社」と言われます。
「日本後記」によりますと、
和気清麻呂公が宇佐八幡宮に遣わされた折、
災難遭遇時、300頭ものいのししが現れて
清麻呂公をお護りしたという。
それに因んで、明治23年に狛犬に代わる
「狛いのしし」が据えられました。
また、本殿前招魂木(おがたまのき)の根元に
願掛け猪の石像があり、
周りには座立亥串(くらたていぐし)という
願掛け串が多く差し立てられています。

<いのしし写真集といのしし雑学>
*****「護王神社境内のいのしし群」*****

********** いのしし雑学(その1)護王神社の「いのこまつり」 *********
 「毎年十一月一日(宮中特殊神事) 浄闇のなか、庭燎に映し出される幽秘典雅な特殊神事で、
  さながら王朝絵巻のひとこまとして再現されます。そもそも当祭の由来は平安時代に遡り、
  現在も亥子餅を御所に献上する儀式が行われます。」(護王神社パンフレットより)
********** いのしし雑学(その2)「いのししのお札」 *********
 明治21年(1888)〜24年(1891)に発行された日本銀行紙幣(改造兌換銀券)は、
歴史上の人物シリーズとして、藤原鎌足(改造百円券・明治24年)、和気清麻呂(改造拾円券・
明治23年)、菅原道真(改造五円券・明治21年)、野見宿禰(改造壱円券・明治22年)の
肖像を印刷しました。(独立行政法人国立印刷局・広報室情報による)
 和気清麻呂肖像のある10円紙幣(縦100mmx横169mm)では、表の右側に和気清麻呂公、
左に護王神社拝殿があり、裏の中央には「いのしし画像」が描かれている紙幣です。
 和気清麻呂公といのししの関係を明らかに意識した図柄になっています。また、当時の10円は
大変な価値のあるお金であった(下注参照方)のですから、図柄に採用された和気清麻呂公も
明治初期は、大変尊敬された歴史上の人物となっていたようです。

 和気清麻呂公の肖像を用いた紙幣は、その後、「甲10円券」明治32年(1899)が金兌換
制度移行後発行され、表には護王神社の拝殿も描かれました。裏面には清麻呂公の守護獣いのししが
疾走する図柄が用いられたので「裏イノシシ」と呼ばれたそうです。
 続いて「乙10円券」大正四年(1915)わが国のお札で唯一左に清麻呂公肖像に、右は護王
神社本殿が描かれ、「丙10円券」は昭和五年(1930)戦前で最も色数の多い本格的お札となり
ました。 

 因みに、明治15年(1882)に日本銀行が設立され、明治18年(1885)初めて
「日本銀行兌換銀券」が発行され、大黒天の絵柄から「大黒札」と称されたのです。

 (注)明治20年前後の「10円」とは。(答え:大凡20数万円相当らしい)
    *五人家族月15円かかる。
    *米12石100円。一石(150kg)8円98銭。
    *訓導月給10〜30円。巡査月給6〜10円。
    *正岡子規明治25年月給15円で日本新聞社入社。
    *明治24年そば八厘から一銭に値上げ(そば一杯300円とすれば、10円は30万円)
    (参考資料:阿達義雄「幕末明治文学と庶民経済」(株)文久堂 昭和58年3月発行)
*********** いのしし雑学(その3)<猪突猛進> *********** 
       
 「イ」「イノコ」と呼ばれるイノシシ科の野獣で、その肉は、食用肉(シシ)と重用されて
きました。山中に棲み、夜間に農作物を荒らすので、猪垣を作ったり、鳴子を鳴らして、追い
払う必要がありました。
 万葉集の時代でも次のような歌があります。
 「魂(たま)合はば相寝むものを 小山田の鹿猪田(ししだ)守(も)るごと 母し守らすも」
  (二人の魂が合えば一緒に寝ようものを、山田を荒らす鹿や猪を見張るように、母が私を
   監視していることよ。)巻十二ー3000番 読み人知らず

 頸が短いので急に展回することが出来ず、「猪突猛進」となる動物です。護王神社に献納
された絵図や置物などをみても頸がありません。
 首の回らない動物を十二干支の動物の中で探しますと、「うし、うま、ひつじ、いのしし」
などになり、中でも「いのしし」は、とみに「頸の無い野獣」ということになり、猪以外は、
古来人間生活に密接に関係してきましたのに、残念ながら「いのしし」は、「シシ」として
以外人間には好ましい動物でないようです。
 しかし、「イノシシ君、残念がることはありません。もっと哀れな頸の回らない動物が
人間世界に存在しますから。それを金欠人間といいます。」

********* いのしし雑学(その4)<干支の仲間としての亥> ********

 十干十二支の中での「いのしし」は、十二番目です。干支の発祥の地古代中国では、もともと
農耕のために季節を知る目的から工夫した十二支、すなわち「植物の成長に伴う変化を指していた」
十二種類の文字「滋・紐・演・茂・伸・巳・午・味・身・老・脱・核」が、いつの間にか類似の
       <じ・ちゅう・えん・も・しん・し・ご・び・しん・ろう・だつ・かく>
十二種類の文字「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戊・亥」と変化したというのです。
       <し・ちゅう・いん・ぼう・しん・し・ご・び・しん・ゆう・じゅつ・がい>
 では、もとの「核」は「次代の種子が出来上がること」を意味していたのだそうです。次代の
生命の誕生準備ということでしょうか。そういう意味では、いのししの年は、その次の年以降の
発展を準備する年度ということになります。ぜひともそうであってほしいところです。 
  (参考資料:阿部禎著「干支の動物誌」技法堂出版(株)(1994年10月))

****** いのしし雑学(その5)<縁起の良いいのししの話> *******
 食用肉を人間に提供するいのししは、古来摩利支天の使者とされ、摩利支天は天女、あるいは、
突進する猪に乗る二臂、三面六臂像として、イノシシの上に立つ姿として描かれます。
 (摩利支天像三態を添付しておきます。)
 摩利支天はインド出身の摩利支(陽炎、威光の意味)で陽炎を神格化した女神のこと。
 その功徳について 「摩利支菩薩陀羅尼経」には、摩利支天を念ずれば、その人は人から
見られず、捕らえられず、害されず、財を取られることなく、罰せられないとあり、
陽炎(かげろう)の如くご守護を下さるという。
 護身除災・旅行安全・財福授与・開運成功・武徳守護
 この功徳の由来により中世に武士の守護神として大いに信仰を集めたようで、摩利支天像を
兜の中にお祀りして出陣した前田利家公の話は有名です。 
 毎月亥の日はご縁日になります。 

<<摩利支天寺院(その1)ー建仁寺 禅居庵 摩利支尊天堂>>
京都市東山区大和大路四条下る四丁目小松町146番地
(建仁寺の南側に隣接している塔頭)
開山禅師:大鑑清拙正澄禅師(元の禅僧 1274〜1339)
創建:元弘年中(1331)小笠原貞宗公
御利益:開運勝利、福利円満、七難病苦を免れる

<<摩利支天寺院(その2)ー南禅寺 聴松院 摩利支天堂>>
京都市左京区南禅寺福地町86−15
(南禅寺の北側に隣接している塔頭)
開山:希世霊彦が南禅寺境内に開創し、自派の祖清拙正澄の塔所としたとのこと。
   細川満元の香火所ともなっている。
重要文化財に細川蓮丸像がある。掲題の百日紅もさることながら、
刊行案内では、となりの「湯豆腐の店」が俄然有名で、
全ての案内は、「聴松院となり」と紹介されるので、
まさに(軒を貸して、母屋をのっとられる)感じです。


締め括りはー平成19年ー「亥年」よ幸多かれ!


平成18年12月30日   *** 編集責任・奈華仁志 ***


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