平成社会の探索



つれづれ閑談 ー平成の徒然草ー
<定年>は<諦年>なり
<諦念>人生への<箴言>を<進言> 


第009話「見えぬ物を見る美学」
(徒然草:第137段より)
ーーーーーーー 箴言の箇条書き ーーーーーー
(1)花はさかりに、月は隈なきをのみ見るものかは。
(2)雨に向ひて月を恋ひ、たれこめて春の行方しらぬも、なほあはれに情け深し。
(3)咲きぬほどの梢、散りしをれたる庭などこそ、見所多けれ。
ーーーーーーーーーーーーー  平成の閑談  ーーーーーーーーーーーーー

兼好法師の「ないものを見る美学」は、「やせがまん」ではなく、「無い物ねだりをしない美徳」あるいは、「諦めの早さ」ではなく、「見えない物への心の持ち方としての奥ゆかしさ」というべきでしょうか。

この「無い物を見る美学」は、なにも兼好法師の鎌倉期に始まったものではなく、古代より、たとえば万葉歌人の中にでも、見出される特性ではないでしょうか。

「中納言家持」すなわち大伴家持の百人一首歌は、「かささぎの渡せる橋に置く霜の白きをみれば 夜ぞふけにける」であって、家持の此の歌が展開した「黒と白のモノトーンの世界」は、江戸期の 国学者戸田茂睡が「おもしろき景気も色も香も無き世界」での「えも言えぬ美的空間」となっています。

続いて紫式部の百人一首歌も「めぐりあひてみしやそれともわかぬまに雲隠れにし夜半の月かな」となっています。さらに藤原定家も、次のように歌を詠んでいます。

「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」

鎌倉期のもう一人の文化人鴨長明の「無名抄」でも次のように述べています。

「・・・霧の絶え間より秋山をながむれば、みゆる所はほのかなれどおくゆかしく、いかばかりもみぢわたりておもしろからむと、かぎりなくおしはからるるおもかげは、ほとほとさだかにみむにもすぐれたるべし。・・・」

「見えぬ物を見る美学」の典型は、平安期和歌世界の「歌枕」であり、中世の「能」や「狂言」、また、俳句も見方を変えれば、最小限の言葉を使いながら、より多くの「見えぬ世界のイメージ」を鑑賞者にふくらませられるかが、句の良し悪しになるのではないでしょうか。さらにこの考えを拡大解釈して、近代の「落語」も一種の「見えぬ物を見えるように見せる芸術」ではないでしょうか。

ーーーーーーーーーーーーー  世事雑感  ーーーーーーーーーーーーー

現代日本人の中にも、「見えぬ物を見る芸術世界」は、存在していると思われます。その典型的な「芸能世界」とは、「落語」でしょう。

座ったままであらゆる世界を演じてみせる「落語の世界」は、「能」「狂言」の演劇舞台よりさらに限定されたざ「座布団一枚」の世界に座しての手八丁、口八丁での「笑いの世界創出芸術」です。

落語は、十七世紀の初め頃、難波と江戸で、興ったとされています。彼らの道具は、扇子に手拭いがせいぜいでこの僅かの演技用道具をあれこれに使い分けて、いろいろの笑い世界の時間的空間的設定をこなしていきます。観客が充分に対応してくれないと笑い世界は、展開してゆきません。

西欧社会では、これに匹敵すると思われる芸術に「パントマイム」という寸劇パーフォーマンスが伝承されてきていますが、創出できる世界は、誠に単純で、「落語世界」のごく僅かの部分にしか相当していないでしょう。まして、笑いの世界の広さ深さにいたっては、とても「パントマイム」が「落語」に対抗できるはずがありません。

ーーーーーーーーーーーーー  参考メモ   ーーーーーーーーーーーーー

「見えぬ物を見る美学」の他の例として「歌枕」と「能」や「狂言」に言及しておきます。

日本文化の中に於ける「歌枕世界」の成り立ちを見ますと、次のようになりましょう。

(イ)歌枕の役目 

「万葉集」やその後の「勅撰和歌集」の年月を通して、日本民族は「やまとうた」の和歌を民族の伝統文芸に創り上げ(古今集仮名序など)、「歌枕」という文化伝承のための道具を考案して和歌に導入し、「歌枕」に日本の風景を切り取って千年後の現在へ送り込んできました。「歌枕」は日本民族の知恵の結晶です。

(ロ)昔の人々の異郷風物への憧れ

自由に行動が出来なかった時代の人々の生活空間は誠に狭いものであり、先祖から伝承された世界を受け継ぐために「語り継ぎ、言い継」がれてきた口承世界や物語世界が主体であったのです。その環境下で異郷風物への憧れを満足させるに「歌枕」は打って付けのものでした。

(ハ)「歌枕」の再評価

平成時代の「歌枕」を実地体験することによって、そこから嘗ての人々が共有した 「歌枕」とその提供した空想世界へ思いをめぐらすことが現代人の為すべき事といえましょうか。すなわち次のような時間的および空間的思考交差パターンが考えられます。中古、中世の歌人達、たとえば、百人一首歌人達は、「歌枕」という乗り物を創出して、空間的に移動困難であった「歌枕世界」を逍遥しました。   「歌枕世界」の実景を体感できる現代人は、「百人一首」などの和歌集という乗り物に乗って、時間的に移動困難である「百人一首歌人達の歌枕世界」を体験したいところです。

「能」「狂言」世界の舞台芸術

中世からの芸術「能」「狂言」の舞台は、四本の柱に支えられただけの六メートル四方の「限定された、また切り取られた空間」に過ぎません。役者はこの狭い空間で、ありとあらゆる世界を演じ、展開してみせるのがこれらの芸術です。

空間的には現実の世界はもとより、幻想の世界、夢の世界、天国や地獄、時間的には、過去・現在・未来いずれの時間でも演じられるわけです。正に、「見られぬ世界」を「見ることが出来る世界」に仕立て直して、観衆の前に「見せる」ものです。かつ舞台上の演技者が観客に「無限の夢幻的イメージ」が作れるように仕向けるのです。この辺は現代の映画手法とは、数段観衆に高度な精神的演技協力を要求する特殊芸術であると言えましょう。またこれらの舞台は、西欧の平面的舞台(額縁舞台)と違って三方から観衆が鑑賞しているよろずの物が創出される「魔法の空間」であるのです。楽屋から舞台への「橋掛り」は、あの世とこの世の架け橋と見なされています。舞台装置から既にこの世で見えぬ物を見えるように設えているのです。西洋の演劇では見られない舞台設定です。

 

OK画伯のギャラリー





平成19年5月25日 *** 編集責任・奈華仁志 ***


ご感想は、E-mail先まで、お寄せ下さい。
なばなひとし迷想録目次ページ に戻る。 磯城島綜芸堂目次ページ に戻る。