平成社会の探索



つれづれ閑談 ー平成の徒然草ー
<定年>は<諦年>なり
<諦念>人生への<箴言>を<進言> 


第002話「仏の仏」
(徒然草:第243段より)
!!!!! 箴言の箇条書き !!!!!
「徒然草」筆者吉田(卜部)兼好8歳の時、父(兼顕)と息子(兼好)との会話。
子「仏とはどんなものでしょうか」
父「仏には人間がなっているのだ」
子「人間は仏にどうやってなるのでしょうか」
父「仏の教えによってなるのである」
子「その教える仏は何が教えて仏にしましたか」
父「その前に仏になっていた仏の教えによって仏にお成りになったのだ」
子「その教え初めの最初の仏は、どんな仏でございますか」
父「天から降ってきたのか、地から湧いたのであろうか」
 「(子に)問いつめられて、答えられなくなってしまった」
!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
***************  平成の閑談  ****************
   「兼好坊や」のお父さんに対する質問は、8歳の少年にしては誠に賢い「人生」をまた「人間」を 認識するための内容と言えましょう。
 彼の質問の端緒になっている「仏」という内容の理解を進めるために、彼に対して逆に「どうして」 その質問を発したのか、さらに「どうして」と、・・・続けて、問いつめていきますと、「自分とは 一体何者なのか」、あるいは「人間は何のために生きているのか」といった人間究極の疑問の 極点に煮詰められていくのではないでしょうか。
 人間は生きていくためには何かに縋って、何かを拠り所にしており、あるいは生き甲斐にすべき 具体的な頼る対象を持って生きております。「仏」なるものがその最たるもので、平安鎌倉期の中世 日本社会にあっては、誰しもが追い求める人生形態であったのです。言葉では具体的な「ほとけ」で あっても、物理的に「具体的なもの」でないのが「ほとけ」ですから、解説しにくいのです。
 徒然草最終段の此の説話には、色々の意味合いを汲み取ることが出来ます。
 もともと人間は「神」や「仏」を具体的に理屈で煮詰めて考えた上で、認識し理解して信仰して いるのではありません。「理屈抜き」で一途に信じることで信仰心が成り立つのではないでしょうか。
 したがって、「兼好坊や」のように理詰めで「ほとけ」を追求していきますと、どこかで切羽 詰まってしまいます。「仏」とはそういうものでしょう。「兼顕父さん」も一度は、幼い子供の質問に わかりやすくと解説の糸口を自分なりに模索したのでしょうが、四回の「なぜ」で詰まってしまい ました。当然と言うべきでしょうか。
 普段の日常生活でも、何か解らないことに対して、「どうして」という疑問を発し続けたり、 自問自答したり、することはあっても、とことん煮詰めることは殆どありません。殆どの場合、 疑問点がそれほど深刻で、重大な課題でない場合が多いからでしょうか。たとえ「ほとけ」とは と考えても、一二の代替案に納得してそれで打ちきりとすることが大半です。
 人生の諸課題に対して徹底的に「兼好坊や」方式で対処するのか、「兼顕父さん」の「大人のやり 過ごし」ですますのか、いずれにも良否があり、一方法に限定できないようです。それこそ、 柔軟な「自在無碍」の「ほとけの構え」で処理するのがいいのかもしれません。そうなった人間が 兼顕父さんがいう人間の「仏の仏」なのかもしれません。
***************  世事雑感   *****************
::::::::<1>宗教の多様性:::::::::::::::::::::::::::::
 「兼好坊や」が疑問に抱いた「ほとけ」をはじめとする宗教の世界は、はなはだ多岐に渡る複雑な 内容になっています。吉田(卜部)兼好父子の生きた13世紀後半から14世紀前半の時代において 日本に於ける宗教とは、神道、仏教あるいは中国から伝承されていたであろう民族宗教であったわけで、 現在のように、世界のありとあらゆる宗教に接することはなかったでしょう。それだけに、外来の 宗教の代表である仏教に対して興味があったのかも知れません。
 日本民族の古来の原始的宗教、いわゆる「八百万神」思想と異なり、人生哲学としての「仏教」を 日本民族は如何に咀嚼し、消化し、自分のものとしていたのでしょうか。「原始的神道」の根本は、 人間が如何に「神」という概念で示される「自然」に融合していくか、ということではなかったかと、 考えています。一方、外来の宗教は、「自然」に対抗する「人間」という存在を如何に認識するか ということに重点が置かれているように思います。日本人は「自然」と戦って「人間」を際だたせ なくても、そっと「自然」に寄り添って人生を構成していきましょう、ということで、満足していた のではないでしょうか。
 そこへ、外来の宗教が入ってきましたから、驚くと共に如何に取り込むか、迷ったことでしょう。 仏教伝来以来、早1500年近くなりますが、本当に仏教を信仰しているか甚だ疑問です。現在でも 家の中に仏壇と神棚が共存していても何の違和感も持っていないところに日本民族の宗教に対する 何とも大らかな宗教受容実態を再確認することになるのです。
::::::::<2>人類共通の基盤とは::::::::::::::::::::::::::
 人種や民族によって宗教との関わり方はいろいろで、宗教の違い毎に多種多様といえましょう。
 こういった生存環境(地域、民族、歴史、言語、宗教など)の異なる人間社会にあって、人類共通の 文化、共有できる人間世界とは何でしょうか。それはオリンピックやサッカーに代表されるような 人間活動としてのスポーツであり、感情の表現としての音楽や絵画に見られる各種芸術的活動である わけです。加えてアラビヤ数字(部分的にローマ数字を含めて)という文明伝達手段もあります。
 これまで言語に関しては、20世紀初頭にエスペラント語なる人工語が発明されましたが、100年 たっても未だ全世界で数百万人(世界の人口約60憶人の0.1%)の使用言語でしかありません。
 言語や宗教の多様性に代わって各民族間の意志疎通を図るべく、他の方法で全ての民族が理解 できる文化を築くことは出来ないのでしょうか。現在のように宗教の違い故に、民族間での紛争が 絶えないのは、人間社会にとって大変残念な出来事と言わざるを得ません。しかも各民族の宗教は 決して他民族を殺戮せよ、というものではないはずですし、各民族ともそれは充分解っているはずです。
::::::::<3>人類を結びつける手だて::::::::::::::::::::::::
 20世紀になって人類は「コンピューター」なる技術を確保しました。これは、前述のアラビア数字 の十種類の表記方法より更に簡単で単に「0」「1」すなわち「無し」「有り」だけの略号です。この 簡単にして使いやすい技術世界を活用しない手はありません。いろいろな各民族が持っている文化的 財産(言葉、芸術、その他、文化的価値のある事項)を全部「コンピュータ言語」に連結させ、それを 他の民族や人間が即理解でき、判断できる様な環境つくりをするものです。  一例、ある民族の言語についていいますと、その言語を全てコンピューター言語に翻訳できるように して、コンピュータ言語を介して他の民族や人々が瞬時にして、理解できるシステムを構築するのです。 ポケットにマイクとイヤホンをセットすれば、初対面のギリシャ人と日本人でも、何の苦もなく会話が 出来るという物です。
 ギリシャ語もマイクの代わりにOCR(オプティカル・カード・リーダー)のような端末を文章に 当てればすぐに日本語が出てくると言う物です。
 誠に持って夢のような話しですが、かって、今から100年まえ、20世紀初頭にある未来予想家が 「100年後には人間は動物と話が出きるようになっている」といいましたが、人間は動物と自由に 話しが出きる前に、「各民族が誰とでも話が出きるようになっていてほしい」ものです。 
***************  参考メモ欄  ****************
::::::::::::::: 世界の宗教に関する一口メモ書き ::::::::::::::
::::::::(その1)世界宗教::::::::::::::::::::::::::::
現在世界の三大宗教といわれるものは、キリスト教、イスラム教、仏教です。この三大宗教に、民族宗教が 数多くあります。現在、キリスト教は全人口の33%、イスラム教はキリスト教の大凡半数に当たる 17%、ヒンズー教はキリスト教の三分の一の13%、それに仏教はヒンズー教の半数の6%の人間社会で 話されており、加えて無神論者・無宗教者がキリスト教徒に相当する31%もおります。
::::::::(その2)日本に於ける宗教:::::::::::::::::::::::::
 日本に於ける宗教の内訳を信者数から見ますと、神道系(53%)仏教系(40%)キリスト系(7%) となっていて、宗教法人数でみますと、神道系(8.6万団体)仏教系(7.8万団体)と18万団体 以上が宗教活動を展開しているのです。
 関連の参考資料(「宗教年鑑」)によりますと、日本の新宗教団体は、第一期から第四期に分類 され、次のように集約されるようです。
第一期 天理教ほか、金光教、黒住教など計6団体
第二期 大本ほか、中山身語正宗、ほんみち、計3団体
第三期 創価学会ほか、立正佼成会、PL、生長の家など計15団体
第四期 阿含宗ほか、世界基督教統一神霊協会、幸福の科学など計19団体(オウム真理教を含む)
伝統的な歴史宗教と新興宗教の違いは、宗教活動が、専門職者が主体であるか、一般者が主体であるか の違い、あるいは、現世否定来世救済の思想が主体か、現世肯定現世享楽実現を目指しているかの違い などで比較されます。
::::::::(その3)仏教の現状:::::::::::::::::::::::::::::::::
現在の先進諸国では、宗教に対して、個人別に信教の自由が法律で保証されていて、政教分離が国家の 基本的形態と見なされています。
現在世界各地で紛争が起こっている殆どが、政治と宗教の関係のあり方に関係したもので、政教分離の 考えが通せないところに問題があるようです。要は宗教団体毎に国家の政治を左右しようとするところに トラブルが起こっているのです。さらには、ある宗教とその集団や民族がが他の宗教の集団や民族を 認めない、攻撃する、殺戮するなどの状態までエスカレートしている事態もみられます。
人間から宗教を取り除くことが出来ないだけに、この問題は、簡単に解決できないのです。もともと 仏教以外の宗教は、他の宗教を認めない、唯一絶対の思想で望むために、解決の糸口さえないのです。
以下独断と偏見の「日本人の宗教」についての一口メモ書きです。
その点、日本古来の「八百万の神」は、なんでもいいのです。認める認めないの問題さえ、いうなれば どうでもいい、ただ自身が如何に「自然に融合して周囲を乱さないで、人としての始まりと終わりを 通過できるか」ということをすべてとしているのではないでしょうか。かって「森の住人」と言われた 縄文人の基本にある宗教的姿勢が日本人には似つかわしいように思います。

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平成17年8月25日   *** 編集責任・奈華仁志 ***


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