平成社会の探索



つれづれ閑談 ー平成の徒然草ー
<定年>は<諦年>なり
<諦念>人生への<箴言>を<進言> 


第013話「徳育とは」
(徒然草:第130段より)
ーーーーーーーー 箴言の箇条書き ーーーーーーーー
(1)人とは「争わず」人に「従い」人を「先に立てる」こと。
(2)勝負事はすべて(1)に反する。(人を喜ばせるため故意に負ければ、勝負事にならない。)
(「人に本意なく思はせて、わが心を慰まん事、徳に背むけり」と。)
(3)人に勝ろうと思うなら、学問にしかず。
(4)道を学ぶ目的は、「善行を誇らず」「仲間と争わず」「重要な官職も捨て」「利益も捨てる」為である。
*************  平成の閑談  ************
 いずれの箴言も、取り分け現代人には耳の痛い話でしょう。誰しもが思い当たるところです。
(1)「人と争わないこと」、この一言でも「言うは易しく行うは難し」。解ってはいるが、
   いざ現実社会のなかでは、どうしても物事全てが「人と争う」為にあるような気がして
   ならない。学校社会も、企業社会も。
   成人するまで人となりの教育を受ける期間は、競走が無くても良さそうなものですが、
   かえって大人世界以上に「人と争う」期間になっているようです。まずは幼稚園に
   入るときから入学試験があり、人と拠り分けられ、振り落とされる運命にあります。
   「人とは争うな」と言われても、「人が争いを仕掛けてくる」ことにもなります。
(2)現代社会から「競争」がなくなったら、どんなに良いだろうと思うのは、単なる空想。
   現実は、すべて「競争」を前提としている。またそうでないと「現代社会が成立しない」と
   暴言してもよいくらいだ。法師は、「人に本意なく(残念に、あるいは、嫌な思いを
   させて)思はせて我が心慰む」は、「徳に背けり」という。
   而して「争ひを好む失なり」(争いに興じる余りの弊害)となる。
(3)そして、これらの対処策はいつに「学問」しかないという。その学問の道でさえ、
      己の人間を磨くための手段ではなくて、他人と差別化するための道具に過ぎないと
   見なされ、通常「勉強」はお互いの「け落とし合戦」であって、「生き残り作戦」でも
   あるのです。「悲しいかな!学問の道!」となるわけです。

 以上のことを考えると、所詮現代人はその社会に於いて「争うこと」なく、生活することは
困難なように思われます。
 兼好法師が「学問の道にしかず」とは言いますが、自らを磨く道に見えても、結局は人との
比較が云々されて、誠にやり辛い所です。兼好法師の時代から800年経っても社会の事情は
変わっていないと言うことになります。

************  世事雑感   *************

平成19年9月21日付の朝日新聞「天声人語」欄に次のように、当該徒然草の文章が引用されて いました。

▼広辞苑の「徳」の項目に『徒然草』の一文が引かれている。
 「人に本意なく思はせて我が心を慰まん事、徳にそむけり」。人に嫌な思いをさせて悦に入るのは
 徳に反するという教えだ。それは「争ひを好む失なり」、つまり争いに興じるあまりの弊害だとも
 説く。
▼次の学習指導要領を検討している中央教育審議会が、道徳を新たな教科「徳育」にするのを
 見送る・・・
という状況に対するコメントである。

 確かに、戦後の世界に於いて、戦前の日本文化の核を成していたと思われるいろいろな民族文化の
「徳」がいとも簡単に捨て去られ、姿を見せなくなりました。その一つに1945年の戦前、即ち
少なくとも近代になる明治時代以来の諸学制が変革されたことがあります。学校の教育に於いて、
戦前の「修身」なる用語はともかく、かなり明確に現在で言うところの人の行わねばならない
「徳」を具体的に示していたことは事実です。「修身」即忠君愛国あるいは軍国主義、国粋主義、
さらに、好戦思想争へと直結するものとはいえない点もあるに関わらず、そのように結論付け
られたのか、完全に戦後の民主主義下の学校では、「徳育」が表面に出ませんでした。
 国語、算数、理科、音楽など、学ぶことは重要ですが、それらの「学習の最終目的」は、成人して
から、社会に出て生活していくための手段を獲得することが第一の目的ではなく、まず、「人間と
して、日本人として」、まともな「共同体の一員」になることが主目的のはずです。

 前述の朝日新聞「天声人語」欄はつぎのように付言していますが、もう一歩踏み込んで、「徳育」
に代わる具体的な方向を示してほしいところです。単なるお題目だけでは、子供の「徳育」には
ならないからです。
▼公共心や品格は、生涯を通じて育み、磨くものだ。大事な子供時代は、成長に応じて親や教師が
 範を垂れ、助言し、人格の離陸を見守る。・・・
▼人間の幹を太くするのはやはり道徳で、そこから国語や算数の枝が元気よく伸びてゆく。大切な
 幹であればこそ、せっかちな品評や、押しつけの肥料は控えた方が良い。 
************  参考メモ欄  *************
「徳育」は世界の民族ではどのように取り扱われているのでしょうか。当然我々日本人は
この「徳」なる思想を大陸文化から導入したものでしょうから、中国に於ける子供の「徳育」なる
進め方が参考になるところです。
 また「徳」の教育はなにも漢字文化世界の社会規範だけでなく、英語ほかの外国文化圏でも、
必要なことは間違いありません。
 因みに、物の本による「徳」成る概念の構成を見ますと、各国の文化の基幹にある思想は次の
ようなものです。

(その1)中国哲学・儒教の重要概念としての「徳」
     道徳的卓越性で、「仁」「義」「礼」「智」「信」、実践事項「孝」「悌」「忠」。
     (まさに、滝沢馬琴「南総里見八犬伝」の世界です。)
(その2)ギリシャ哲学での「徳」
     プラトン「国家」論からの四元徳(Cardinal virtues)
     「思慮・知恵・叡智」「忍耐・勇気」「節制」「正義」。
(その3)キリスト教の神学的徳(コリント書より)
     「信仰」「希望」「愛(Charity)」

 というような哲学になりますと、そう簡単に子供を集めて学校で教え込むほど簡単ではないことが
わかります。人間が一生涯掛かって習得に努めるべき「人生修行」の道で、単なる学校教育の一科目
ではないのです。
 「人間完成の道は、遥かで、遠くて長い、50年や100年の問題ではなく、千年、いや二千年と
  追い求めて行くべき課題なのでしょう。」

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平成19年11月8日   *** 編集責任・奈華仁志 ***


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