平成社会の探索



つれづれ閑談 ー平成の徒然草ー
<定年>は<諦年>なり
<諦念>人生への<箴言>を<進言> 


第011話「諸縁放下」
(徒然草:第112段より)
ーーーーーーーー 箴言の箇条書き ーーーーーーーー
(1)世俗の黙し難きに随ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇もなく、 一生は雑事の小節にさへられてむなしく暮れなん。
(2)吾が生、既に「さだ」(躓き進まないこと)たり。
(3)諸縁を放下(捨て置く)すべき時なり。
*************  平成の閑談  ************
 兼好法師は、世間の雑事にかなり長らく悩まされてきたと見えて、この段では、相当思い切った極論を展開しています。信も守らない、礼儀も構わない、物狂いと言われても良い、うつつなし、情けなし、謗られても良い、とまでも言い及んでいます。
 確かに人から受けるこれらの陰口を気にして、どれ一つも言われないようにまっとうな人との付き合いを続けるのは相当神経が疲れます。それまでして、自分を犠牲にして、人とのつきあいを問題の無い物にしようとするのは、少々神経過剰というべきでしょう。もう少し自然体で考えては、と兼好さんに 助言してやりたいような気もします。
 確かに人間の一生では、あれこれと「人間の儀式」が多すぎて、疲れることは確かです。しかし、それが人生かも知れません。<(人の)「一生は雑事の小節」からなっている>と、兼好さんの 言う通りかも知れません。したがって、これらの人とのつきあいを無視して、一人だけの世界と いうのも何とも味のない物ではないかと思います。
だれしも長い人生の内には、人とのつきあいに疲れて、何処か山の中に一人済んで雑念をとり除きたいと思うことはあるものです。たまには「仙人暮らし」を始めるというのもいいかもしれませんが、人間としての一生を考えるとき、果たして、全く人との接点を持たないことで、「人」「間」といえるのでしょうか。
 兼好法師は、これまでの人生を振り返ると余計に「世事にかまけて少しも自分を見つめていなかったことに気づき「空しく(人生が)暮れなん」と言わざるをえなかったのでしょう。この発言の裏を返せば、彼はこれまでの人生では、世事にこまめに対応してきたと言えそうです。人間として合格であったのです。
************  世事雑感   *************
 世の中には兼好さんのように「人とのつきあいの雑事がうるさい」「自分を取り戻したい」と思っている人もいれば、人の中に居ると安心という変わった人も居るもので、いわゆる「せわやき」、もっと言うならば「お節介」と言われる手合いの人物です。
これは兼好さんと逆で、世間に暮らして人がいないと安心できない、人の顔を見て人とのつながりを感じないと生きていけない人々です。
 かといって他人様にお世話になるばかりの状態はどうかとおもいますが、要はほどほどがいいのでしょうか。
参考までの浮かぶ漢字は「節介」でしょう。この節介という本来の意味は、漢和辞典に寄りますと「節操を堅く守り、世俗に流されないこと」で、ずばり、兼好さんが本編で認めた境涯にぴったりの 言葉と言えましょう。
 ところが、日本語のおもしろさは、この「節介」に「お」がくっつくことで、意味が逆転するのです。すなわち、「お節介」とは、ご存じのように、「でしゃばって、いらぬ世話をやくこと、またそういう人や様」を意味するという、誠に不思議な世界です。
「そんな漢字の世界に遊ぶお節介をやかないで、自分の節介を考えよ」と言われそうです。
(注)語源由来辞典で「節介」の由来を探りますと、「切匙」あるいは「狭匙」とする説で、「切匙」とは、すり鉢などの内側に付いた物を書き落とす道具のことで、切匙が溝の内に入り込むことから 他人事に介入していくことを指したのではと推測されています。また「節介」の「介」は間にはさまることの意味から当て字に用いられているのではともいわれる。
************  参考メモ欄  *************
 兼好法師の箴言で、白居易の詩句から引用しているとされる「日暮れて途遠し、吾が生既に蹉だ(おもうにまかせないこと)たり」より、思い出すのは、仏教経典の用語とされる「火宅の人」という ことです。妙法蓮華経の中の譬喩品の一節で、「この世は燃え盛る家のように苦悩に包まれた所なのだ。」というたとえです。
その説話には「・・・子供らは燃えてゐる家の中で遊び戯れていることを楽しみ、執着してゐて、悟らず、知らず、驚かず、恐れず、火がその身に迫り、苦痛が自分に迫って来てゐるのに、心に厭わしいとも思わず、家から出て行こうとする気持ちがない。・・・・」と語られているのです。
 では、どうすれば「雑事の小節にさえ」ぎられることなく、有意義に一生を終えることが出来るのか。兼好法師の理屈は「世事を捨てればいい」ということですが、現代の社会ではそう簡単に捨て去る ことができません。それでも捨てる人がやはりいて、いわゆる世間から逃亡するために、やむなく 「ホームレス」という語彙で纏められる集団に入らざるを得ない状態を言うのでしょうか。その人々はすべてがそう望んでそうしているとは限らないのでしょうが、現代社会では、この形態をとることが「所縁を放下」することになるようです。
 社会体制が変わっても、その社会で生きにくい、また生きていけない人々が出てくるのはやむを得ないことなのでしょうか。全ての人が等しく人生を全うできる社会の実現は理想ではあってもそう簡単に実現しそうにもありません。それ故に仏教が人を諭して「火宅」と知らしめる所以かも知れません。

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平成19年8月30日   *** 編集責任・奈華仁志 ***


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