平成社会の探索



つれづれ閑談 ー平成の徒然草ー
<定年>は<諦年>なり
<諦念>人生への<箴言>を<進言> 


第010話「ぼろ塚」
(徒然草:第115段より)
ーーーーーーーー 箴言の箇条書き ーーーーーーーー
(1)「しら梵字」というぼろ(暮露:被髪・破衣・帯刀の流れ者)が「いろをし房」というぼろに 敵討ちをする話
(2)「宿河原といふところにて、」「二人河原に出あひて、心行くばかりに貫きあひて、共に死にけり。」
(3)「ぼろぼろといふもの、」「世を捨てたるに似て我執深く、仏道を願ふに似て、闘諍(とうじょう)をこととす。放逸・無慙(むざん)の有様なれども、死を軽くして、すこしもなづまざるかたの いさぎよく覚えて、」人の語りしままに記述したとのこと。
****************  平成の閑談  *****************

兼好法師がこのような殺伐たる話をどうして書き留めたかというと、「ぼろぼろ」連中は「執着心が強く、」「闘争を仕事としている」が、「死をおそれず、すこしもこだわらないところが、小気味よく思われて」書き記したという。

果たし合いの現場である「宿河原」は、神奈川県川崎市多摩区宿河原と大阪府茨木市南清水町宿河原の二地点が比定されているが、ここでは、茨木市内と仮定しておく。

「摂津名所図会」(巻五)にも、「つれづれ草に云はく」として、原文が引用されており、民話としては次のように伝承されています。(茨木市教育委員会編集「わがまち茨木ー民話・伝説編」 昭和59年3月30日)(原典:辻田寿義三「郷土史夜話」郡より)

郡の住人とかいうことです。ある年の夏、道端の田で草取りをしておりました。あまり多くの草ですから、あぜへあげました。その時、折悪しく武士が通りかかり、袴のすそにとばしりがかかりました。武士は大いに怒り、「無礼だから、手打ちにする」と言って聞きません。地主・名主らが頼みましたが、その甲斐無く、遂に手打ちにされました。その子は家財道具を皆売り払って京都に行き、武家奉公し、夜な夜な剣術を習いました。虚無僧になれば深編み笠で敵を探すに便利であるとて虚無僧となり、ほろほろと尺八の音、誠にあわれに聞こえました。長年東海道をさがしまわり、遂に流れて、宿河原の河原で、他の虚無僧四、五人と武士とたき火を囲んであたっておりました。武士が虚無僧に「身の上話をしてはどうか」と言いました。一人の虚無僧が以前の話をしたら、老僧が「それは私の若いときの話である。」と名乗りました。先の虚無僧は、千載一遇の好機と喜びました。二人は近くの河原に出て、長時間に亘って勝負をしましたが、最後は二人とも死んでしまいました。他の虚無僧や武士たちが二人を憐れんで葬りました。

***************  世事雑感   ****************

「仇討ち」の習慣は古くは既に鎌倉期、建久四年(1193)曾我兄弟の例から見ることが出来、江戸期には幕府により堂々と法制化され、遂に、近代になって明治6年(1873)「敵討ち禁止令」が出されるまで、数百年に亘って続いてきた旧態依然の封建的な出来事でした。鎌倉期の兼好法師でさえ「仇討ち」が「死を軽くして、すこしもなづまざるかたのいさぎよく覚えて」いたのですから、一般社会の風潮としてそう簡単に無くなるはずはなかったのです。

それから130年ほど経ちましたが、現代では、名称はともかく、実態として「敵討ち」なるものは存在しないのでしょうか。人間というのは、そう簡単に本来の性格が変わるとは思えません。何等かの形で現代社会でも暗に「敵討ち」に等しいことが行われているのではないでしょうか。その代表的な例が2001年のニューヨーク同時テロ事件であり、中近東地域に於ける宗教集団間の「やったり、やられたり」のテロの繰り返しです。当事者たちは決して「敵討ち」とは思っていないで、「堂々たる宗教教義を遵守するために宗教活動である」と嘯くかも知れませんが、諸外国の門外漢的立場から見ますと、「敵討ち」の変形としか見なされないのではないでしょうか。

相手の立場が認められない、自分たちが正しくて、相手は間違っている、という考え方あるいは 行動では、何年経っても「仇討ち」はなくならないでしょう。洋の東西を問わず、宗教の如何を問わず、なんとか「相手を認める筋道を立て」ないと、敵対行為は無くならないでしょう。頭の中では解っていても実際の行動が伴ってこないと言うことなのでしょう。まだまだ人間は勉強することがいっぱいありそうです。

***************  参考メモ欄  ****************

茨木市南清水町にある「ぼろ塚」は、「安威川」の上流の支流である「勝尾寺川」堤防の一角にあり、丁度国道171号線(現在の西国街道と称される)が勝尾寺川を渡る清水橋の袂から右岸を二、三十メートル下がった所に建立されています。



(左)勝尾寺川対岸から「ぼろ塚」を望む(右)「ぼろ塚」と解説板

「ぼろ塚」から北東方向に旧道を取りますと、ノーベル賞文学賞を受賞した川端康成旧跡地に 到ります。両親に死に別れた川端少年はお祖父さんの家(豊川村)から旧制茨木中学に通っていました。彼は随筆「茨木市で」の中で、「・・・ちかくには「伊勢物語」や「徒然草」にも書かれているところがある。」と言及しています。


(左)「川端康成先生旧跡」(左)宿久庄村落内の八幡神社付近

「ぼろ」(梵論・暮露など)の語源について

物知り事典によりますと、「半僧半俗の物乞いのことで、鎌倉期末に発生し、室町期は尺八を吹いて物乞う薦僧(こもそう)が出現した。後の虚無僧の源流である。梵論字、梵論梵論という。」と 記されている。梵論字(虚無僧濫觴一秘伝抄)については、唐土では天竺より渡ってきた僧侶を梵論と呼ばれ、百済国より日本へ出家に渡り建武・弘治頃より専ら虚無の道を行い、日本では虚無僧のことを梵論字といわれているようです。

夏目漱石の小説「草枕」にも、次のように書かれています。

「すると、ある日、一人の梵論字が来て……」 「梵論字と云うと虚無僧の事かい」 「はあい。あの尺八を吹く梵論字の事でござんす。その梵論字が志保田の庄屋へ逗留しているうちに、その美くしい嬢様が、その梵論字を見染めて――因果と申しますか、どうしてもいっしょになりたいと云うて、泣きました」


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平成19年5月30日   *** 編集責任・奈華仁志 ***


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